高校1年生から留学し、ホームシックを乗り越えて自立を学んだ坪松さんの高校留学体験談
Governor Dummer Academy(マサチューセッツ州・学校名は当時)卒業
Tulane University(ルイジアナ州)在学中
個人主義の国アメリカとの出会い
中学2年生のときに1か月ぐらいオレゴン州のサマースクールに参加した直後、アメリカで勉強したいと「直感」しました。
寮制の私立学校で、毎日授業中に行われていた生徒同士の討論、放課後に広大な森林に囲まれながら楽しんだスポーツ、さまざまな国や米国内の州からやってきた同学年の友達を相手に使った自分のつたない英語など、それまで外国に触れたことのなかったぼくにはすべての出来事が新鮮で、心身ともに充実した「アメリカン・ライフ」を実際に体験することができました。
帰国後、答えを暗記するだけで、個人の意見の重みが尊重されない日本の教育そのものに、深く疑問を感じていました。その頃、さまざまな物事の要因を考えると自分の意見をもてるようになり、そして、意見をもつことが自分のパーソナリティを育めるというメカニズムの存在に気づき、そのパーソナリティを構築し、発展させていくことが可能なアメリカの教育に、ぜひとも挑戦してみたいと思うようになったのです。
ホームシックを克服
ぼくは10年生(高1)としてGovernor Dummer Academy(全米最古の寮制私立高校)に編入したのですが、渡米してしばらくするとホームシックにかかり、泣きながら電話することが何度もありました。
また、ストレスが原因で体調を崩したりもしました。今思うと、それまでは家族に甘やかされていて、生活のあらゆる面で自立したことがなく、いつも誰かに助けを求めていたのかもしれません。
自分一人で考え、問題を解決するという、アメリカでは「当り前」のことを経験したことがなかったのです。それが、渡米して1年後の春休みに初めて日本に帰った時、母から「辛いことを乗り越えることによってこそ強くなれる」と言われ、「今こそが、自分で自分の道を切り開かねばならない時だ」と確信しました。
その後再渡米したときに、自分に必要なことは、
(1)日本人だということを意識しない
(2)余計なコンプレックスやプライドを捨てる
(3)素直に心を開く
(4)友達や先生と真正面から付き合っていくこと
だと感じ、それを実践していきました。
その結果、友人や先生とともに生活していく過程で、生涯のフレンドシップを築いているという実感が湧いてきたのです。
ノートをとることの意味
クラスルーム内では、先生が黒板に書いたものを生徒が写すという、日本では一般的にみられる光景が、あまりみられません。そもそも、先生が一方的に講義をするというよりも、生徒たちが質問したり意見を言い合ったりすることで授業が進んでいきます。
もちろん、ノートを全くとらないということはありません。ただ、ノートをとるということは、自分なりに授業の内容を理解し、それを後でしっかり理解できるようにまとめなければ、意味がありません。黒板上で先生が理解できるノートよりも、自分自身が理解できるノートのほうが、後で役立つに決まっています。
夜になると、日本では考えられない量の宿題との戦いです。英語だったら読書や論文(エッセイ)、数学だったら問題を解く等、内容は日本の学校との違いはあまりありません。
ただ、一番苦労したのがエッセイでした。日本でも経験したことのない、「自らの考えをペーパーという形式で表現する」作業。ましてや、英語で数ページ書くとなると、並大抵の努力では完成させることはできませんでした。
また、「自分は理数系」と決めつけていたせいか、興味がなくなり途中でやる気が失せてしまったこともしばしばありました。
先生と生徒の関係
留学開始後2週間目、生まれて初めて書いたエッセイで、「F」(落第)という、屈辱的な評価を英語の先生からもらい、かなりのショックを受けました。その晩、英語の先生の家(キャンパス内にある)に行き(このように、放課後に先生とアポイントメントをとって勉強を教えていただくことを、エキストラヘルプといいます)、つたない英語で自分の置かれている状況をすべて話しました。
英語をそれまで話したことのないぼくにとって、エッセイを書くという作業は酷だが、でもあきらめるつもりはない、と。するとその先生は、さまざまな質問を切り出してきました。ぼくの家族が恋しいか、食べ物が恋しいか、友達は......? など。
当時、ホームシックで悩んでいたぼくにとって、聞いて欲しかった質問ばかりをしてくれました。この先生は学業よりも先に精神面のケアをしてくださったのです。それが結果的にホームシックで少し興奮気味だったぼくの心を、大分落ち着かせてくれたのです。
それからというもの、毎晩この信頼できる先生の家に通い、エッセイ上での細かい文法修正から論理的根拠に基づいた説得方法まで詳しく教えていただき、次のエッセイではC、その次はB、そして、一年の最後にようやく A をとることができ、あれだけストレスの多かったエッセイを書くという作業が、いつの間にかぼくの「得意分野」になってしまったのです。
この先生だけでなく、他にも何十人もの先生が、同じように「精神的なケア」をしてくださり、それまでぼくが描いていた理想的な「先生と生徒の関係」が、自分の目の前で起こっていることに気づいた時、ぼくは「アメリカに来てよかった」と初めて思えるようになっていました。
お金や名誉以上に大切なもの
ぼくは、自分の英語がある程度上達するまでは、何でもいいから一つ、言葉を使わなくても自分を表現できるもの(スポーツや芸術)を身につけることが必要最低限だと考えていました。
その一つが、音楽です。音楽を通じて、人とのかかわりを広めていくこともできましたし、また自分のパフォーマンスを周りが評価してくれたことは、いろいろな意味で大きな自信にもなっていきました。
まず、幼少のころからエレクトーンをやっていたので、ピアノで自分の実力を発揮しようと決心しました。
ところが、10年生が終了して日本に帰国した夏に一人のギタリストに出会い、非常に強い影響を受け、11年生になったと同時にギターへの転向を決心しました。日本ではギターそのものを触ったことすらなかったのですが、ギターは当時ぼくが真剣に「やりたい」と思った楽器で、「やりたいことをやるのが一番大事だ」と考えたので、ピアノへの未練は全くありませんでした。
そのかわり、やるからには学校で一番になると決めたので、時には寝食を忘れてギターを弾き続けました。友人には「Insane(気が狂っている)」といわれたこともありましたが、学校で一番になるためにはバカといわれようとも練習を続けるしかなかったのです。
しかし、コンサートにおいて自分が作ったバンドでギターを弾き、1000人近くの前で自分を表現し、大きく温かな拍手をいただいたことは、卒業式でぼくが表彰された「最優秀ミュージシャン賞」、つまり学校で一番になれたという目標を達成できたことよりも、今では重要な財産となっています。
その時、初めて気づきました。「周りのみんなの温かさは、お金や名誉以上の、かけがえのないものだ」と。
スポーツとボランティア
授業以外の活動で主なものはスポーツです。毎日授業(8時〜2時半)が終ってからなんらかのスポーツをやらなくてはなりません。日本の部活動と似ていますが、アメリカのスポーツはシーズン制ですので、1年中同じ種目をやるわけではありません。
ぼくの場合、秋にサッカー、冬にバスケットボール、春にテニスといった具合です。そのほかにもラクロス、フットボール、野球、レスリングなど数多くの種目を選択でき、充実した環境のもとで、真剣に楽しく取り組むことができました。
また、1学期間はコミュニティサービスと呼ばれるボランティア活動が必修で、ぼくは病院でお年寄りの世話などに従事しました。
インターナショナルクラブの部長として
そのほか、ぼくはInternational Clubという留学生が集まった団体に入っていました。このクラブは、世界の各地から生徒が集まり、お互いに違った文化や国々の価値観が凝縮されていて、まさに「人種のるつぼ」でした。12年生(日本でいう高校3年生)のときには部長に就任し、留学生の代表として特別な意識と責任をもって活動に参加しました。
クラブの活動は毎週木曜日の夕方6時半から始まります。週毎に学校でどのような行事があるのかを確認したり、毎年4月に行われる恒例のインターナショナルディナー(各国の留学生がそれぞれ母国の料理をつくり、学校の食堂で出品する)に向けての準備について指揮をとったり、さまざまな経験を積むことができました。ふだん、留学生が抱えているホームシックなどの問題や悩みといった精神的な部分にも触れ、留学生全員で真剣に討論しあうこともしばしばありました。
キャンパス外の活動もありました。たとえば、他校主催のダンスパーティ。これを通じて、いろいろな学校の生徒と友達になることができました。ほかにも、クラブ全体で映画を観に行ったり、ボストン市内まで行って各国の料理などを食べにいったりもしました。これらの行事と部長という役務を通じて学んだことは、いかにして他の留学生を元気づけ、個々の「やる気」を起こさせながら一つの理想的なコミュニティを作っていくか、でした。この経験は、現在大学で専攻している経営学の勉強のなかでも少なからず役に立っています。
さらなる独立心の追求
3年間の高校生活を終え、ルイジアナ州(アメリカ深南部)にあるTulane Universityに進学しました。気候が温暖で、ジャズやブルースといったアメリカ音楽のルーツを生んだニューオリンズという都市に位置します。現在、マネジメント(経営学)と社会学の両方を専攻しています。
ここでは高校以上にタフな勉強生活を送っていますが、毎日の生活を通じて出会う人々からは多大な影響を受けています。Tulaneのような総合大学では、リベラルアーツ・カレッジよりも学生へのケアが少ないため、一人ひとりがしっかりと独立し、強く生きていかなければなりません。
ぼくは、高校時代に身につけた独立心をさらに高めていきたいという希望から、日本人留学生の少ないTulaneをあえて選びました。その結果、高校時代に得た精神面での独立を高めることができ、また経済面での独立も、大学から奨学金(卒業後、返済の必要なし)をいただき、少しずつですが確立しています。今はまだ発展途上の身ですが、将来は国際舞台で大きく活躍できるように、大学卒業後は就職を経て、数年後のMBA(経営修士号)取得を視野に入れています。
高校留学を考えている人たちへ
まず留学を考える上で一番大切なことは、自分がどれだけ留学をしたいか、ということだと思います。いくら周り(家族、友達、先生)が留学に賛成しても、「英語がうまくなりたいな」といった曖昧な目標しかなかったり、遊び半分の気持ちで留学をしようといった弱々しい意志を持っていたりしたら、留学は成り立ちません。
なぜなら、留学がスタートした後のすべての決断は、自分に委ねられているからです。ぼくには、英語がうまくなりたい願望は当然ありました。しかし、「将来何がしたいのだろう」、「自分はどんなヤツだろう」といった、「自分自身をリサーチしたい」という願望のほうが強く、それがいつしか強いモチベーションへと変わっていきました。
そして、個々の意志に加えて必要なものがもう一つあります。これは周りの人々が直面しなければならない現実ですが、「経済面、精神面でのサポート」です。
ぼくが今自信をもって「最高に充実した高校生活を送ることができた」といえるのも、家族の大きな支えがあったからです。挫折しそうになったとき、いつも的確なアドバイスで励ましてくれたのが家族でしたし、経済面でも心配はいらないから、やりたいことにどんどんチャレンジしていけと言ってくれたのも家族でした。
ただ、それはぼくの家が特別裕福だったからだというわけではありません。経済面でのピンチはいくらかあったようですが、両親がそれを見事に切り抜けチャンスに変えていってくれました。
「子どもの留学は親の留学でもある」とはよく言われますが、ぼくの(というよりぼくの家族の)経験からすると、まさにその通りだと思います。アメリカ留学は、ぼくの家族の支えがなければ絶対に成り立ちませんでした。
留学開始後は、日本人である限り、問題ばかりが降りかかってきます。ただ、一つひとつの問題を解決していくうちに、どんどん自分自身が成長していき、過去の問題はどんどん小さく見えていきます。誰にでも、成長したいという強い意志さえあれば、どんなに大きな問題からも逃げることはないでしょうし、逃げて目先の利益や楽を求めてしまえば、成長はストップしてしまうでしょう。
ぼくはさまざまな問題にぶつかり、その度に自信をなくし、落ち込み、悩みました。ただ、あらゆる問題からは絶対に逃げませんでした。なぜなら、ぼくは挫折して日本に帰っても、行く学校もありませんでしたし、逃げ場などなかったからです。そして、それ以上に何が何でも成長したいという意志がありましたから、逃げることなんて考えてもみませんでした。逃げずに問題を乗り越えていくうちに、取捨選択のレベルもどんどん高まっていきました。
ですから、高校留学を考えているみなさんも、どうか自分の本当にやりたいことを追究することから逃げずに、真正面から自分と戦ってみて、それで留学という手段が自分にとってベストだと考えたなら、是非ともがんばってみて下さい。
また、留学がベストだが経済的な問題で実現できそうにないという方は、留学生のための奨学金(俗にファイナンシャルエイドとかスカラーシップと呼ばれる)にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。
この奨学金は、日本と違って卒業後の返済の必要がありませんから、事実上のディスカウントになります。それ以外の問題で実現しそうにないという方も、絶対に留学したいという意志があれば、いくらでも手段、方法はあるはずです。
留学の夢を絶対にあきらめずに、必ず実現させてください。また一方で、留学は必ずしも教育上で最高の結果をもたらす手段ではないことを確認してください。中途半端に留学して挫折して帰ってくるよりも、はじめから日本で目標を立てて生活するほうが、何万倍も充実するかもしれないのです。
ですから、「自分の意志」とよく相談して、悩んで悩んで「自分で」答えを見つけてみてください。決断は、周りの人々がするものではなく、自分でするものです。
みなさんの人生です。みなさん自身が人生のシナリオを描いていけることを願います。